Wednesday, September 29, 2010

チャックベリーとチェスレコード

チェスレコード - レナード&フィル・チェス兄弟は1950年にブルース系のアーティストのレコーディング会社としてシカゴにチェスレコードを創立した。マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、メンフィス・スリム、ジョン・リー・フーカー、バディガイ、ハウリン・ウルフ、彼らはすべてチェスから音楽をリリースし、伝説になった。ロックンロールの人気が上がっている中、チェスは新しい音楽をプレイするアーティスト達も増やしていった。そして、ボ・ディドリーやチャックベリーのアーティストとしてのキャリアを築きあげていくのと同時にチェスの信頼も構築していった。面白いことに、ローリングストーンズもこのチェスの音楽を表現しようと、60年代に何回かチェススタジオでレコーディングを行っている。

チャックベリ- チャックベリーはもともとミズーリ州の出身だが、やがてシカゴに移り、1955年にマディ・ウォーターズからチェスレコードを紹介された。レナード・チェスはすぐに彼と契約を結び、彼の最初のヒット曲「メイベリン」はR&Bのビルボードチャート1位をたたき出し、レコード100万枚以上の売り上げた。彼の次のヒットは1956年、ロールオーバーベートーベンは、全米29位を獲得した。そのあと何年かは「スクールデイズ」「ロックンロールミュージック」「スイート・リトル・シックスティーン」など出す曲出す曲がヒットし、その中でも特に有名な曲は「ジョニー・B・グッド」だろう。

チャックベリーは50年代を通し人気が衰えることはなかったが、1960年に10代の女の子をあちこち連れまわしたことにより逮捕された。(ジェリー・リー・ルイスに何が起こったのか、彼はもう少し注意を払うべきだっただろう)1963年に釈放された後も、レコードを出し続けたがほとんどの50年代のアーティストはイギリスからのアーティストによりなかなか難しい時代になってしまっていた。それにもかかわらず、彼はツアーを続けた。

T-ボーン・ウォーカーは、彼が影響を受けたミュージシャンの一人で、彼はたくさんのギタリストに影響を与える偉大なエンターテナーだった。20039月、ローリングストーンマガジンでチャック・ベリーは「ローリングストーンの選ぶ歴史上もっとも偉大な100人のギタリスト」のうちの6位に選ばれ1986年にはロックの殿堂入りを果たした。


Tuesday, July 27, 2010

サンレコードとジェリー・リー・ルイス

サム・フィリップスがフロリダを旅しながら、エルビスをRCAに売って受け取ったお金で何をしようか考えていた頃、ジェリー・リー・ルイスという若い男がメンフィスのスタジオのオーディションに現れ、サンレコードのエンジニア達が「クレイジー・アームズ」のカバーと彼の作った曲のパフォーマンスのデモを作っていた。彼はすでにゴスペルの歌をブギウギバージョンで演奏することで、テキサスにあるサウスウェスタン・アセンブリー・神大学から退学処分を受けており、プロのミュージシャンになることを目指していた。サンレコードは彼と契約を結び、1957年までに「火の玉ロック(グレイト・ボールズ・オブ・ファイヤー)」や「ホール・ロタ・シェイキン・ゴーイン・オン」などはビルボードのポップチャートでも2位をはじき出すなど次々とヒットを生み出した。彼は非凡な行動やステージショーでも有名だった。彼のキャリアは1958年に13歳のいとこと結婚したこと(3人目の妻)が発覚し壊れ始めた。それ以降彼はラジオ局からブラックリスト扱いを受け、キャリアを取り戻すのに何年もかかった。彼は60年代中旬くらいから徐々に、カントリーミュージックを演奏しだしてキャリアを取り戻していった。彼は1986年にロックンロールで殿堂入りし、彼の音楽と彼自身が他のミュージシャン達に大きな影響を与えた。

サンレコード、サム・フィリップス、メンフィスとエルビス

サンレコード- ファッツ・ドミノとリトル・リチャードがニューオリンズでロックを始めた頃、その少し北、テネシー州のミシシッピ川の辺り、メンフィスで事は起こっていた。すでに黒人アーティスト(B.B.キングやハウリン・ウルフ等)のレコーディングを自身のスタジオで(メンフィス・レコーディング・サービス)行っていたサム・フィリップスは、ブラックミュージックを歌える白人のアーティストを探していた。フィリップスはすでに、偉大と言われるロックンロールの曲、(最初のロックンロールと評される)「ロケット88」をシカゴのチェスレーベルから1951年にリリースしていた。その後、新しくサンレコードというレーベルを設立し、ここの会社からはすぐにジェニー・キャッシュ、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンズ、ロイ・オービソンなどを含むスーパースターが輩出される。


エルビス・プレスリー・・・エルビスは1953年から1954年の間にサム・フィリップスのスタジオで何枚かレコードを出した。サムは10代のミュージシャンを探していたが、エルビスが40年代の曲「ザッツ・オーライ」をレコーディングするまで、彼がほしいと思う人材はなかなか見つけられなかった。彼は「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」をカバーし、それが地元のラジオを通し大きな影響を与えた。今想像するのは難しいが、この時白人の観客にとってエルビスの音楽は黒人音楽そのもので、サム・フィリップスが探していたのはそういうものだった。何回かのレコーディングの後、エルビスはギタリストのスコティ・ムーアとベースのビル・ブラックを含めた彼の新しいバンドでツアーを始めた。エルビスのステージはセンセーショナルなショーで、女性の観客を熱狂的にし、批評家を憤慨させた。彼のサンレコードからのレコードの売り上げはよく、彼が20歳のとき、それよりも大きいレコード会社が、彼の契約を売ってくれるようサム・フィリップスに近づいてきた。最終的にフィリップスは、エルビスの契約をRCAに40万ドルくらいで売った。結果的にエルビスのその後の人気を考えると40万ドルで売りさばいたのは大きな間違いだと思われるが、それによりサンレコードからのメジャーヒット、カール・パーキンスの「ブルー・スエード・シューズ」の資金を得ることとなる。エルビスは立て続けにレコードをリリースし、レコードを最も売り上げたスーパースターの一人となる。1977年42歳の若さで亡くなった。



サンレコードは数え切れないヒット曲をプロデュースし、1986年にはロックンロールで殿堂入りを果たした。2003年に他界した。

Monday, July 26, 2010

ニューオリーンズとファッツ・ドミノ

50年代のロックンロールの先駆者の中で、現在でもまだ名前も音楽も生き残っているアーティストと言うのは数少ない。ファッツ・ドミノは明らかにそのアーティストの中の一人だ。ちょうどその頃(1955年)リトル・リチャードは「トゥッティ・フルッティ」をリリースし、ファッツ・ドミノはインペリアルレコードから「悪いのはあなた(Ain’t That a Shame)」をリリースし彼の最初のヒット曲になった。この曲はすぐにトップ10に入った。(後に”Ain’t That a Shame”は、チープ・トリックによりカバーされ70年代に”チープトリックat武道館”がリリースされたときには3Xプラチナに認定された。)


1956年に“ブルーベリー・ヒル”をリリースした時にはトップ40チャートの2位になり1957年には500万枚を売り上げた。これは今日の音楽ビジネスにおいても達成するのは困難である。彼は1963年まで彼の最初のレコード会社、インペリアルレコードに居続けたが、彼の音楽のラジオ放送がなくなり、それと同時にイギリスから進出してきたバンドの影響から彼の売り上げも落ちた。彼の最後の大ヒット曲は1960年の”ウォーキン・トゥ・ニューオリーンズ(Walkin’ to New Orleans)”だろう。


ファッツ・ドミノは世界的にも音楽の町として有名なニューオリンズでミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせたが、ずっとそこに住み続けハリケーン・カトリーナの災害の時も住んでいた。今日でも彼はルイジアナ州を彼のホームと呼んでいる。

50年代とロックンロールの誕生-WLAC リトル・リチャード

 ロックンロールの誕生- 戦争が終わった50年代には、アメリカ大衆は戦争による邪魔がなくなり、陽気な雰囲気に戻っていた。しかし、親の世代の音楽を聞き飽きたアメリカの若者は何か新しいものを探していた。そして彼らはすぐにロックンロールとして新しいジャンルの音楽を見つけ出したのである。黒人のミュージシャンは彼らが演奏していたR&Bを少し手直しし、白人の観衆はその音楽に熱狂的になった。ニューオリンズは新しい音楽誕生のキーとなったのである。


白人のティーネイジャー達はWLACのようなラジオ局からこの音楽を聞き始めた。テネシーにあったWLACはもともと黒人の娯楽として始まったラジオだったが、そのうちに白人の10代の若者も聞くようになっていった。WLACではインストルメンタルで成功したチャック・ベリー、ファッツ・ドミノ、レイ・チャールズや他にもリトル・リチャードのようなミュージシャンの音楽を流していた。私はよくこの時代のラジオと今日のポッドキャストブームが似ていると感じる。--独立したラジオのパーソナリティや独立したアーティストから、独立したリスナー(観衆)への紹介など。


リトル・リチャード- もともとはジョージア州出身で、1955年に彼の最初のヒット曲「トゥッティ・フルッティ」はスペシャルティ・レコーズからリリースされた。(これはファッツ・ドミノのバンドを使ってニューオリンズでレコーディングされた。)他にも「ルシール(Lucille)」「ロング・トール・サリー(Long Tall Sally)」や「グッド・ゴリー、ミス・モリー(Good Golly, Miss Molly)」などのヒット曲がある。彼は、黒人のアーティストが当時は白人しか入れなかった場所で人種が入り混じって彼の演奏を聞くことを可能にした。(当時はそれをたくさんの人が非難したが)彼が人気絶頂のときの1957年、彼は自分の信じる宗教を見つけ、それからは宗教に関係のない音楽をプレイすることをやめたが、1963年にまたもう一度ロック歌手として戻ってきた。面白いことに、ジミ・ヘンドリックスは1964年にリトル・リチャードのバンドでギタリストとしてのキャリアをスタートさせ、彼は後に「僕はリトル・リチャードが彼の声でそうしたように、僕も自分のギターをしたいんだ」と話している。リトル・リチャードは彼自身を「ロックンロールの設計者」と位置づけており、実際それは事実に近い表現だった。彼は、マイケル・ジャクソン、ミック・ジャガー、ポール・マッカートニーを含むたくさんのミュージシャンの憧れの存在だった。